「やっぱり第一人者はオオバさんですよね」
昼下がりの上級検事執務室・1202号。
執務机の椅子に腰掛けて捜査資料に目を通していた御剣怜侍は、ふいに聞こえた不吉な名前に思い切り顔をしかめた。
資料から引き剥がした視線をぐるりとめぐらせる。程なくして、書棚を背に腕を組んで佇む自称・御剣の助手、一条美雲を視界に捉えた。
自らを普通じゃないと豪語するだけはあり、彼女の思考回路はおいそれと理解できるものではない。しかも、思ったことをそのまま口に出す性質ゆえに、
意図の分からない話を延々と聞かされることも少なくないのだ。
最初こそ御剣も何とか理解しようと勤めていたが、その終着点が大抵中身の伴わない雑談だと分かった今となっては、あまり真剣に取り合わないことにしている。
とはいえ、先程の発言はどうしても聞き捨てならない。主に、御剣の心の平穏的な問題で。
「…いきなり何の話かね、ミクモくん」
不機嫌そのものの御剣の声は、執務室内の空気を低く重く奮わせた。午後の日差しで暖められていた室内温度が一気に2、3度下がったような気さえする。
彼にしてみれば、できる限り聞きたくない名前を口にした相手へのちょっとした非難を込めただけにすぎないが、鋭い視線と眉間に深く刻まれたヒビも
相まってかなりの迫力だ。
普通、いきなりこんな顔で睨まれたら、泣き出すか逃げ出すか萎縮してしまいそうなものである。が、呼びかけられた当の本人はまったく動じていない。
それどころか、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると、目を閉じて大袈裟に両肩を竦め、ゆっくりと首を左右にふり、得意げな表情で御剣を見下ろしてきた。
「…何の真似かね」
御剣の声はますます低く、苛立ちが滲んでいる。イトノコギリあたりなら震え上がりそうなものだが、このくらいで怯む美雲ではない。
今度はチッチッチッ、と舌を鳴らす音に合わせ、顔の前に突き出した右手の人差し指を振ってみせる。
「やだなあ、ミツルギさんのマネに決まってるじゃないですか。まあ、ヒビの再現がまだまだなんですけどね」
美雲はとんとん、と自分の眉間をつつきながら、あっけらかんと答えた。
「……ムう」
……多少は意識しているところもあるものの、己の仕種はそんなに相手の神経を逆撫でするものなのだろうか。
いや、そもそもどこに御剣の仕草を真似る必要があったのだろう。
というか、最初の質問に答えてもらっていない。
どこからツッコむべきかと考え込み始めた御剣をよそに、美雲は指折り数えながら一方的に話し続ける。
「それからー、ヒメコさんでしょ、あかねちゃんでしょ。もしかしたらだけどムチのお姉さんも?デリシャスさんも褒めてたような気がするし、マリーさんも
そんなこと言ってたかな。わあ、わたしが知ってるだけでもこんなにいっぱい!まったく罪作りですね−、ミツルギさんてば」
彼女の口から次々と飛び出すのは、聞き覚えのある名前たち。女性であることと美雲との共通の知り合いであること以外の共通点が見つからないそれに、
御剣の疑問は募る一方だ。
「さっきからキミは何の話をしているのだ?」
「何って、ミツルギさんはモテモテだなあって話ですけど」
「……………………………………は?」
たっぷり1分ほど間をおいて彼の口をついて出たのは、間の抜けた一言だけだった。
「あ、やっぱり分かってなかったんですね」
「いや…。どう考えてもキミのカンチガイだろう」
美雲が挙げた女性達の顔ぶれと、モテモテという単語がどうしたって結びつかない。心当たりといえば、一番最初に美雲が挙げた、会うたび茶色い猫撫で声で
擦り寄ってくる若干1名のみだ。…あまり思い出したくない人物だが。
「………ミツルギさんって、捜査の時なんかびっくりするほど鋭いのに、そーゆう方面にはとことん鈍いですよね」
美雲は明らかな呆れを滲ませた口調でそう告げると、つかつかとデスクに歩み寄り、真正面から御剣の顔をまじまじと見つめてきた。
「な、なにかね?」
「…薄々そうじゃないかなーと思ってたんですけど。ミツルギさん、恋人いないでしょう。というか、いたことないんじゃありません?」
「なっ…!?」
断定ともとれる口調でとんでもない質問をされた。白目をむいて狼狽する御剣を見つめながら、彼女は続ける。
「だってもう何度も執務室にもミツルギさんのおうちにもお邪魔してるのに、それらしい人に一度も会ったこと<ないですもん。ミツルギさんのお部屋は
一通り調べてみましたけど、女の人の写真とか置かれてるってわけでもないみたいですし」
「いつの間に…」
「わたしは大ドロボウ《ヤタガラス》ですよ?ミツルギさんの情報を盗むのくらい朝飯前です!」
美雲は得意げに答えるが、胸を張れることでは無いし、そもそもプライバシーの侵害だ。説教とまではいかなくとも、少しくらいは灸をすえておくべきだろう。
そう決意した御剣は、美雲を指差して重い口を開いた。
「ミクモくん、キミは……」
その先を口にすることは、叶わなかった。突きつけていた左手を、小さな両手に掠め取られたからだ。
デスクの天板に両肘を付き、御剣の手のひらを捧げ持つ美雲は、まるで神に祈りを捧げる修道女だ。御剣の左手にじっと視線を注ぎながら、それを裏表に反したり、
薬指をさすって曲げ伸ばししたりしている。
手袋に包まれた細くしなやかな指が、御剣の骨張った指をたどる。くすぐったいようなむず痒いような不思議な感覚に、背が粟立つ。皮革越しでもわずかに伝わって
くる体温が暖かい。
振り払うのは簡単なはずだ。別に強く掴まれているわけではないし、仮にそうだとしても、本気の力が10代の少女に負けるとは思わない。
そう思うのに、何の行動も起こせない。与えられる未知の感覚に思考が纏まらず、何も言えず、何もできず、結局されるがままだ。
気持ちばかりが急いて、酷く落ち着かない。美雲が触れている手のひらから、焦燥感に似た感覚がじわじわと這い上がってくる。
「んー、指輪の跡も全然ないしなあ。実は婚約者がいる、みたいな展開もなさそうですね」
のんびりした口調で美雲が告げる。なるほど、御剣の左手を熱心に観察していたのは、そういうわけだったらしい。目的が達成されたのならそろそろ解放されるだろうと
いう御剣の淡い期待は、ものの見事に砕け散った。
「こうして見るとミツルギさんの手って大きいですね」
御剣の手に、美雲が彼女の手のひらを押し当ててきたのだ。
「わあ、わたしの倍くらいある!」
言いながら美雲は、ぎゅっ、と指を絡めてきた。更にその上からもう片方の手で彼の手を包み込む。びく、と御剣の肩が跳ねたが、美雲は気づかない。
もともと集中すると他のことが目に入らない性分なのだ。
「指も長いなあ。それにゴツゴツしてる。うーん、大人の男の人って感じですね」
少女らしい、やや高めの透んだ声が耳を打つ。
何となく絡み合った手を見ているのが居た堪れなくて視線をデスクに落としていた御剣だったが、彼女のトレードマークの1つである鍵を模した金色の簪が
しゃらりと小さく鳴った音につられ、つい顔を上げてしまった。
―― それが、いけなかった。
机に肘を付いて身を乗り出している美雲と、椅子に座っている御剣の目線の高さは丁度同じくらいだ。そもそも15cmの身長差がある2人なので、こんな風に
お互いの息がかかる程の至近距離で向き合うのは初めてである。
形の良い輪郭、御剣の片手ですっぽり覆えてしまいそうなほど小さな顔。
子猫を思わせるアーモンド型の大きな目を彩る、意外に長い睫毛。
瞬きと共に見え隠れする透き通った深緑の瞳。
みずみずしく張りのある、なめらかな肌。
濡れたように艶めく、薄く開かれた桃色の唇。
窓越しの陽光を弾く柔らかそうな黒髪。高く結い上げられたポニーテールが、彼女の動作に合わせてわずかに揺れる。
見慣れた顔の筈なのに、伏目がちの表情がまるで別人のように艶っぽい。
―― 目を、逸らせない。
温かい美雲の吐息が、絡み合った手を掠める。心臓が早鐘を打っている。思考が靄がかったようにぼんやりとして、考えが纏まらない。
「ミツルギさんは、この手でたくさんの人たちを救ってきたんですね。じゃあ、これはヒーローの手かあ。なんだかご利益ありそう!」
美雲は楽しげな様子で話し続ける。御剣の視線は、そのふっくらとした唇に自然と惹きつけられる。
ふと、あの唇はこの手と同じようにあたたかいのだろうかと考えて、御剣の鼓動が一際大きく跳ねた。
本能が警鐘を鳴らしている。一刻もはやくこの体勢をとかないと、取り返しのつかない事態に陥ってしまう気がした。
「…ミクモくん、そろそろ離してもらいたいのだが」
「あっ!ごめんなさい、つい。ちょっと調子乗りすぎましたね」
「……いや」
防衛本能に従い、やっと解放された左手をすかさず机の下に避難させた。更に椅子を少し引いて背もたれに体を預け、彼女から少しでも距離を取る。
「話を戻しますけど、やっぱりミツルギさん、恋人いないですよね?唯一執務室に届くプレゼントが怪しいと思ってたのに、送り主はオオバさんだったし。
それに、お休みの日にお出かけ誘っても何だかんだで断られたことないから、ここ数週間の休日は全部わたしと過ごしてるじゃないですか。で、どうなんですか?」
その質問に、御剣の眉間のヒビが更に深く刻まれた。美雲の何事もなかったかのような顔が癪にさわる。
「…まあ、事実、キミの予想通りだ」
「もう、やっぱりそうじゃないですか!」
不貞腐れたようにそっぽを向く御剣にお構い無しに、美雲は再びデスクに両手をつけ、身を乗り出す。慌てて身を引く御剣だが、背もたれより後ろには下がれない。
またしても、目と鼻の先に彼女の顔がある。
「実は結構心配してたりしてるんですよ。ミツルギさん、もう結婚しててもおかしくない歳ですし」
「キミに心配してもらうようなことでは無い。そんなことは気にしないように」
平静を装いつつ適当にあしらう。御剣としては、また妙な空気になるのを防ぐためにも早く離れてほしい。
「じゃあ、恋人はいないとしても、せめて気になる人ぐらいはいないんですか?」
「何故そこまで食い下がるのだ!」
会話を打ち切りたい一心から声を荒げる御剣。それでも美雲は少しも怯まず、御剣の目を真っ直ぐに見つめたまま言い放った。
「そんなのミツルギさんに休んでもらいたいからに決まってるじゃないですか!」
執務室に沈黙が満ちる。彼女の発言を反芻するが、意味がまったく理解できない。御剣得意のロジックも、彼女の前では形無しだった。
「……どういう意味かね?」
考えてもどうせ答えは出ないと割り切った御剣は、直接彼女に尋ねることにした。それが一番確実で一番早いと思ったのだ。
「だってミツルギさん、いつも忙しそうじゃないですか。なんか会う度やつれてるような気もするし。ちゃんと息抜きできてるのか心配なんです。
それなら、ミツルギさんを思いっきり甘えさせてあげられるような人がいればいいのにって。だから、恋人とか奥さんがいたらいいんじゃないかと思ったんです」
そう告げた彼女はひどく真面目な顔をしていた。
「…なるほど」
やっとわかった。彼女は御剣の体調を心配してくれていたのだ。見当違いもいいところだが、彼女なりに真剣に御剣のことを考えてくれた結果なのだろう。
脈絡が無い会話も意図の読めない行動も、全ては彼女の自分への思いやりが発端だったのだと気づいた御剣の胸の奥に、優しいぬくもりが広がってゆく。
「わたしはミツルギさんとお出かけするの楽しいからつい誘っちゃうんですけど、お休みの度にじゃミツルギさんは疲れちゃいますよね。大変だったら断って
いいんですよ?モチロン恋人ができたら、その人優先で構いませんし」
そう。突飛な言動からは想像しにくいが、彼女はとても心優しい少女なのだ。記憶を失い、殺人容疑をかけられていた時でさえ、他人の心配ばかりしていた程に。
御剣は、美雲のそんな性質をとても好ましく思っている。
「ミツルギさんモテるんですし、その気になれぱ恋人くらいすぐできますよ。あ、もし今気になる人とかいるなら教えて下さいね。わたし、サポート頑張ります!」
手袋をはめなおす仕種までしてやる気をアピールする美雲に、思わず忍び笑いが漏れた。他人の為に一生懸命になれるのも、彼女の長所のひとつだ。
荒んでいた気持ちが、すうっと解れていく。
「キミの気持ちはありがたいが、今の私は私自身のことで精一杯だ。恋愛に意識を向けるような余裕は無い」
「えー?そういうものですか?」
「うム。それに息抜きならば、キミとこうして話すだけで充分だ」
「うーん…。とても息抜き中の顔には見えないですけど…ヒビも消えてないし…」
美雲の指先勢い良く眉間に向かって伸びてきたので、慌てて額を庇う。彼女はどうもチカラの加減が下手だ。もしもさっきの勢いで眉間をつつかれたら、
数日間は消えないヒビが刻まれかねない。
「み、見えなくてもそうなのだ!」
「ええー、でも……」
言い募る美雲の顔には、ありありと“納得できない”と書かれている。ここは御剣の腕の見せ所だ。
「…それに、キミと過ごす休日も、いい気分転換になっている」
「え?」
「だから、そんなに私を休ませたいのなら、キミがもっと頻繁に尋ねてくればいい。キミが手伝ってくれれば仕事が捗る。仕事が早く終われば休みが取れる。
休みが取れればキミと出掛けられる。万事解決だ」
「・・・・ホントに?わたし、ミツルギさんの役に立ててる?」
「勿論だ。キミは優秀な助手だからな」
彼女の追及と攻撃を免れるためとはいえ、これは紛れもなく彼の本心だった。
若さゆえか特性かは分からないが、彼女は要領が良く、飲み込みが早く、おまけにとても器用だ。捜査資料の纏めや公判の準備に関しては、細やかな作業が
苦手なイトノコギリよりもよっぽど役に立つ。だからこそ、今日も雑務を手伝って貰っていたのだ。
それに、検事局始まって以来の天才と名高く多忙を極める御剣が、貴重な休日を無駄遣いするはずがない。
美雲から目を離すとまた事件に巻き込まれそうで心配だという気持ちはあるが、それだけならわざわざ一緒に出掛ける必要はないのだ。
イトノコギリ刑事に任せるなり、定期的に連絡を入れさせるなり、方法はいくらでもある。そうしないのは、彼自身の意思に他ならない。
「えへへ、じゃあ、今度のお休みは映画に行きたいです!」
褒められたことがよっぽど嬉しかったのだろうか。美雲はほんのりと頬を染め、弾んだ声でそう答えた。その笑顔につられ、思わず御剣も眉間を緩める。
「うム。その為にも目の前のシゴトを片付けなくてはな。ミクモくん、現場の再現をお願いしたい。ぬすみさんのチカラを借りられるだろうか」
「任せてください!えーっと……。コホン。鳥の飛べない闇夜の空もォー……」
手のひらサイズの機械を取り出し、定番の口上を述べながら操作を始めた美雲。その様子を眺めていると、ふと、先程の彼女の台詞が脳裏をよぎった。
―……せめて気になる人ぐらいはいないんですか?
(気になる人、か)
「…いないわけではないのだがな」
ぽつりと小さく落とされた御剣の呟きは、執務室に響く楽しげな歌声にかき消されたのだった。
素晴らしい企画に参加することができたことを光栄に思います。主催のサタさま、本当にありがとうございます!
無自覚にお互いを翻弄しあう相棒以上恋人未満な精神的夫婦を書きたくて頑張ってみました。なかなか自分の中の萌えを形にできなくて苦しい思いもしましたが、
改めてミツミクが好きだと実感できてとても楽しい創作期間でした。同士の皆様に少しでも楽しんでいただければ幸いです。参加者の皆様の作品も楽しみにしています!
3239Festivalよ永遠に!!