Dear my hero.




「ミクモくん、今日はもう帰りたまえ。送っていこう」

声を掛けられた美雲が顔を上げると、御剣が執務机越しにこちらを見ていた。
この執務室に来た頃はまだ日が高かったはずなのに、彼の背後の大きな窓の向こうはいつの間にやら藍色に染まっている。

「もうそんな時間なんですか?」
「もうすぐ7時になるところだ」

なるほど、終業時間としては適当ではある。しかし。

「でも、まだ全然終わってないじゃないですか。ミツルギさん、お仕事おうちに持って帰るんですか?」

美雲が指摘したとおり、彼の机の上と美雲が腰掛けているソファーの周りには、未整理の捜査資料や過去の案件のファイルが所狭しと並べられている。
この短期間で立て続けに事件に巻き込まれたせいで、彼の仕事は文字通り山積みなのだ。

「キミを送り届けたら、またここに戻ってくる」
「え、まだお仕事するんですか?それなら手伝いますよ」
「いや、必要ない。後はせいぜい纏めるくらいだ。朝までには終わる」

言いながら彼は、デスクの引き出しから車のキーを取り出した。どうやら自ら運転して送ってくれるつもりらしい。

「朝までにはって…。ミツルギさん、まさか眠らないつもりですか?」
「合間を見て仮眠をとるつもりだ。心配はいらない」

御剣の口調は優しい。恐らく彼は、美雲の体調や学生という身分を案じてくれているのだろう。その気持ちは素直に嬉しいと思える。
しかし、できる範囲で精一杯彼を手伝いたい美雲としては、頼りにされていないように思えてやりきれない気持ちになるのも確かだ。

捜査ならまだしも、公判となれば美雲が彼の為にできることはそう多くない。せいぜい資料の整理を手伝ったり休憩時間に紅茶をいれるくらいだ。
いざ裁判が始まってしまえば、美雲には傍聴席で見ていることしかできない。それがとても歯がゆい。もっと役に立ちたいと思うのに。
御剣が椅子を引いて立ち上がる。間もなく彼は上着を羽織って支度を整えてしまうだろう。帰りたくないと告げるのは簡単だけれど、それではただの我が儘になってしまう。
ただでさえ疲れているだろう彼を困らせたくはない。でも、どうせ今帰った所で、御剣のことが気になって眠れないに決まっているのだ。
なんとか彼の役に立ちつつここに留まる方法を探し、美雲は視線を巡らせる。やがてそれは、美雲自身が腰掛けている大きなワインレッドのソファーに固定された。

(……そうだ!)

思いつきを実行すべく、美雲はソファーのぎりぎり右端に体をずらす。そうして空いた隣のスペースを指し示し、御剣に満面の笑みを向けた。

「ミツルギさん、ちょっとここに座ってください」
「……何故だ?」

御剣が、上着を手に振り返った。その顔には不審そうな表情が浮かんでいる。

「いいからいいから。あ、上着は置いてきて下さいね」

「?う、うム」
困惑しながらも美雲の笑顔に押し切られた御剣は、促されるまま彼女の隣に腰掛けた。あえて美雲から少し距離を置いていることに、彼の紳士らしさが見て取れる。

「それで、一体何の……」
「えいっ!」
「ぬおっ!?」

そして美雲は、彼の襟首を両手でつかんで一気に引き倒した。
油断していたのだろう、意外なほどにあっさりと美雲の太ももの上に収まった御剣は、呆然とした顔で彼女を見上げている。
ようやく我に返った御剣が慌てて起き上がろうとするも、この体制では美雲が圧倒的に有利だ。
とどめとばかりに御剣の両肩を押さえ込むと、無駄だと悟ったらしい彼のささやかな抵抗は終わりを告げた。

「な、何なのだ、この体制は……」
「膝枕です!どうです?仮眠を取るにはぴったりでしょ?」

これなら御剣の役に立てるし、ここに留まる理由にもなる。得意げに語る美雲に対し、御剣は苦い顔だ。

「……必要ない。離してくれたまえ」
「あれ?ミツルギさん、枕が無くても眠れるタイプですか?わたしはどうもダメなんですよねー」
「それは、無いよりはあったほうがいいが……。しかし、そういう問題では無い」
「じゃあ、どんな問題なんですか?あ、もしかして恥ずかしいとか?別に平気ですよ。ふたりきりなんですし」
「……それこそが一番の問題なのだが」
「安心してください。わたし、誰にも言いませんから!」
「いや……それ以前に、いくらなんでもコレはやりすぎではなかろうか」
「膝枕くらい普通ですって」
「……普通だとかそうではないとかのハナシではなくでだな」

視線をうろうろと彷徨わせながら話す彼の様子は、たいそう歯切れが悪い。

「その、キミは女性なのだし、そのような短いヒラヒラした服装で、このような体制を自らオトコに勧めるのは、控えたほうがいいのではないかと……」

途切れ途切れにそう告げる彼の気まずそうな様子がおかしくて、美雲は思わず吹き出した。

「あはは、心配しなくてもミツルギさんにしかこんなことしませんよ」

イトノコギリくらい体格がよければさすがに重そうだし、信楽や矢張だと何となく抵抗がある。その点、御剣なら安心だ。

「それにスカートなら、中にスパッツ履いてますし、別に平気ですよ?」
「……キミはちょっと無防備すぎないか」
「何がです?」

きょとんと首を傾げる美雲の様子に、御剣は深いため息をついて遠い目をした。

「……いや、いい。どうせ言っても理解できないだろう」
「なんだかよく分かりませんけど、さあ、どうぞ寝ちゃってくださいミツルギさん!1時間くらいしたら起こしますから」
「どうぞと言われても……さすがにこの体勢で眠るのは無理がある。それに、仮眠はキミを送り届けた後で構わないのだが」
「寝不足のまま車を運転するなんて危ないと思いますよ?少しでも寝てからのほうが絶対安全です!」
「……それは、まあ、モチロンだが。しかしだな……」
「もー、往生際が悪いですよミツルギさん」

こうなったら最終手段だとばかりに、美雲は彼の両目を右手で覆い隠した。

「うおっ!」

いきなり視界を奪われた彼は驚きの声を上げる。

「ふふん。驚くのはまだ早いですよ!ミツルギさんには、今から大ドロボウの秘儀を体験して頂きます!」
「な、何をする気だ!?」

御剣の体が一気に強張る。見えないことが彼の不安を煽っているのだろう。美雲はにんまりと笑って彼の耳元に唇を寄せた。

「モチロン、御剣さんの疲れを盗むんですよ」

そして軽い咳ばらいの音の後、執務室に響き始めたのは歌声だった。ゆったりとしたメロディーと柔らかい音色に美雲の澄んだ声が重なる。
いわゆる子守唄というやつだ。御剣の体から、徐々に強張りが抜けてゆく。

「……キミは、そのような歌も歌えるのだな」
表情は伺えないが、彼の声には感心したような響きが含まれている。

「ムカシ、おとうさんがよく歌ってくれたんです。とってもよく眠れて、疲れなんかすぐに吹っ飛んじゃいますよ。効果はわたしが保証します!」

そう答えて、美雲は子守唄を再開する。できるだけボリュームを抑えて、優しく聞こえるように。丁寧に、想いを込めて。
それに呼応するように御剣の呼吸は少しずつ緩やかになり、ほどなくして規則正しい寝息が聞こえてきた。

(成功、したのかな……?)

そっと手のひらを彼の目蓋の上から退けると、そこには安らかな寝顔があった。顔の前で手を振ってみるが、反応はない。駄目元でもやってみるものだ。

(疲れてたんだろうな……)

検事審査会・会長の逮捕、そして西鳳民国大統領暗殺事件は世間に大きな衝撃を与え、検事局には報道陣が押しかけた。
当然、2つの事件を解決に導いた検事として御剣も連日連夜報道陣に追い掛け回された。
今はイトノコギリを含めた刑事たちが警備に当たってくれているのでなんとか落ち着いたものの、当初は家にも帰れない有様だったのだ。

そんな通常業務さえ思い通りに進まない状況に加え、担当ではない裁判に証人として喚問されたり、弓彦に乞われて彼にアドバイスをしたりすらもしていた。
今日だって2つも公判を担当し、更に明日に控えている別の裁判の準備をしていたところだったのだ。
膝枕と子守唄くらいですぐに寝入ってしまうほど、その疲労はピークに達していたのだろう。
無理もない。どんなに多忙であっても、御剣は決して手を抜くことをしないから。少しくらいは休まないと、いつか体を壊すのではないかと心配になる。


―― それでも。そんな彼だからこそ、美雲は力になりたいと願うのだ。


父の仇討ちと父の意思を継ぐ為に真実を盗む大ドロボウを志した美雲だったが、今では御剣の手助けこそがその目的になっている。
そしてその想いは、記憶を失くした美雲が殺人容疑をかけられた先日の事件を経たことで、更に強まることとなった。

あの時の美雲は、曖昧な記憶に捕らわれ、自ら有罪を望むような態度をとり、御剣が差し伸べてくれた手を拒み続けた。
それなのに彼は、検事バッジを失い、投獄されてまでも美雲を信じ抜いてくれたのだ。
何度窮地に立たされ、その身を危険に晒そうとも、御剣は最後まで決して諦めようとしなかった。
己の正義を貫き、罪無き人を救い、悪を追い詰める為に戦うその姿は、まさにヒーローそのものだった。
嬉しかった。そして、この人の為なら何だってできると思えた。
それから、ふとした瞬間に御剣を思い出すことが増えた。あの日から、美雲の世界は御剣を中心に回りだしたのだ。



眠る御剣へと視線を落とす。初めて見る彼の寝顔は意外なほどにあどけなく、なんだか子供っぽい。

(なんか新鮮。ちょっと可愛いかも)

御剣は、滅多に厳しい表情を崩さない。笑みを浮かべている時でさえ、眉間に深いシワが刻まれていることがほとんどだ。
珍しく何も刻まれていない彼の眉間に、そっと指を這わせてみる。それでも彼が起きる様子は微塵も無い。穏やかな彼の呼吸に耳を澄まし、彼女は微笑む。

「おやすみなさい、ミツルギさん」

どうかこのやさしいひとが、夢の中でくらいゆっくり休めますように。御剣の寝顔に優しげな視線を注ぎながら、美雲はそう祈るのだった。




とりあえず膝枕を書きたかったということが丸分かりですね。みっちゃんは美雲ちゃんにとってのヒーローであって欲しいという個人的願望も込めてみました。
書いていて物凄く楽しかったです!この後執務室を訪ねてきた色んな人たちに目撃されて噂になればいいと思います(笑)
ミツミクそれぞれの視点で一本ずつ投稿したいと思っていたので、何とか間に合わせられて良かったです。皆様の素敵な作品と共に自分の作品が並ぶのかと思うと
冷や汗ものですが、少しでも同士の皆様に楽しんで頂けたら嬉しいです。
最後に、妄想を形にする切っ掛けを下さった主催のサタ様に改めてお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました!